適応障害を抱える三児の父の日々

適応障害の診断を受けたサラリーマンの日々を綴ります。

適応障害サラリーマン 診断を受けるまで④

shomikupapaです。

21年3月に適応障害障害の診断を受けて58日目のブログです。

 

1.社風の違和感、やりずらさ

課長から理不尽な指示にも負けず、取締役会での承認に向けた資料を作成し、指摘され訂正の毎日でした。1か月ほど続きました。

残業は増え、終電間際になる日も。それでも今までの経験を活かせる事と給料面もあり頑張って家で持ち帰って仕事をする日もありました。

前職の頃は在宅も多く、家族とのコミュニケーションも時代に少なくなりました。

 

2.心身共に体調の変化

こんな日が続いていくうちに、条件反射で課長と打ち合わせの時になると手汗が止まらなくなりました。夜には持ってたハンカチがびしょびしょに。緊張感からか説明はうまくいかず、話の内容も真っ白になりました。

会社には行きたくないけど、行かないとプロジェクトが止まってしまう。止まりかけると進捗を確認され、注意され、思考停止に。

いつしか会社のビルを見るだけでも汗が出てきました。事務所に入るとめまいがしたり、常に課長の方向が気になったり。

 

睡眠や食事は十分に取れてました。

仕事後にコンビニで買う菓子パンと、帰ってからのお菓子。ストレスのやり場がない状況です。

 

いつしか、言葉も発せられなくなり、後輩からもしっかりしてください!と注意されるようにもなりました。社内で相談できる人もなく、同情だけは感じてましたが手を差し伸べて欲しいにも色んなことがグチャグチャしてて時間だけが経過しました。

このプロジェクトの社内でされればひと段落できる。これを唯一の希望でした。

 

3.落ち込む日が増えていく

こんな日々が続くと、日曜日の夜だけでなく

翌日仕事のある平日→夜は落ち込み、

土曜日の夜→次の日が日曜日で落ち込み

金曜日の夜→帰宅までの電車だけが気持ちが楽になり帰宅すると落ち込んだりしました。

遅い帰宅時間にも関わらず妻に話を聞いてくれること、日記を書くことが気持ちの吐きどころでした。でもいつしか話すること、ペンを持つことも億劫となりました。

 

あまり涙はしないのですが、数回出ることもありましたが、スッキリすることもなく、それよりも次の日の仕事の〆切、やること、その中で何が出来てない。ことをグルグル考え、疲れ、寝る日々でした。

 

目を瞑ったら、朝になってしまう。だから出来るだけ早く寝たくない。でも寝ないと仕事に営業が出る。でも寝たくない。

そんなループを妻に話して笑ってくれてました。

 

4.朝のドアの重さ

朝起きると、前の日の疲れ、気持ちが持ち越される感覚でした。胃痛や吐き気もありました。

家出る時、妻が玄関まで見送ってもらいましたが、ドアノブを触るのが辛く、マンション5階に住んでるのですが、爽やかな春の陽気も何も感じず、この家をでたら夜まで帰ってこれない恐怖心が気持ちを占めてました。

 

解決策を探すしかない。今のままだと何も変わらない。その中で思いついたのが、会社にいた産業医の存在でした。

 

最近の状態について

shomikupapaです。

21年3月に適応障害障害の診断を受けて58日目のブログです。

 

月曜日の朝から書いてます。このブログは投稿設定を火曜日にしてるので、それまでの心境を思いつくまま書います。 

 

月曜日の朝や日曜日の夜など仕事による不安で様々な体調に不調をきたしやすいです。所謂サザエさん症候群なのですが、最近は薬でごまかしながら仕事を続けてました。ただ、土日は投薬をサボってしまい土曜の夜にドンと不安感から体が動かなくなりました。

大体ドンとくるトリガーって自分の中にあって、自分の思った通りにならなかった出来事が起きた時です。些細なこともなのですが、今回は使おうとおもっていたセロテープを子供が工作で全て使われた時でした。100金で買っていざ使おうと思った時に。。亡くなってました。

わずか一週間弱でした。

 

と、今まで書いてきた課長の下りだけではなく公私でのストレスの蓄積であると最近感じます。

 

経緯は下から日々綴ってます。

適応障害を抱える三児の父の日々

 

仕事面→転職、課長からのパワハラ、部下からの突き上げ、社風の変化(お役所仕事)、初めての役職の拝命

私生活→三人目出産(今4か月)、新築工事(6末に引き渡し)、それによるローン、妻とのコミュニケーション(残業多により会話減)

 

自分の中の器(それも大きくは無い)に水が一杯溜まって、いつしか少しずつ溢れてきた状態です。

 

仕事が終わっても、帰宅してストレスが溜まり、寝て起きてまた仕事。気の休まる日がない状態。体重が増え無理にジムへ通い疲れが溜まったり…

 

踏んだり蹴ったりです。

毎日の薬でだましだまし日々を過ごしてる状態。

 

まとまりない文章になってしまいましたが、ここで自分の考えを整理できる場にしたいなと思います。

適応障害サラリーマン 診断を受けるまで③

shomikupapaです。

21年3月に適応障害障害の診断を受けて56日目のブログです。

 

今の会社に転職してからの日々を綴ります。

 

1.入社から年末まで

21年の10月に不安を抱えながら入社し、内定式や関係先の挨拶など一通りの初日を過ごしました。同日入社は11人。会社の拡大のため人をとにかく集めてるんだなと感じつつ、前職とは違った業界からの転職者ばかりなので、改めて環境が変わった事を実感しました。

 

そして、例の課長は…席におらず。。。

聞いてみるとリモートワークだったのもあり拍子抜けしてしまいました。

会社概要の説明は課長がPC越しで行い挨拶をしてその日は終了しました。

 

週明け、課長と対面しサシでランチを一緒にしたのですが、最初だからとオゴりもなく自分の今までの仕事話に終始しました。

(決して奢ってくれない事に不満は無かったのですが、先入観のスイッチがが入ってて、嫌な人=奢らない人と思い込んでいるだけです)

 

10月からは早速5年計画のプロジェクトに入り上下分け隔てなく事業計画を進めた日々が年末まで続きました。

その間は課長からはお客さま状態だったのでしょうか。特に嫌がらせや叱責もなく淡々と日々が過ぎていきました。

 

2.妻の妊娠。そして課長からのお祝い

12月のクリスマスに3人目の出産予定日でした。入社前から出産前後の休みは伝えていました。予定日の週はリモートワークに勤務を調整いただき、クリスマスイブに第三子が誕生しました。

そしてLINEでチームに報告と写真を添えて送りました。

年末、課長から「お祝いを贈りたいので住所を教えて」と連絡があり伝えたところ、かわいいタオルセットを頂きました。

「こーゆー人ほどちゃんとやるんよな」妻の一言。課長からしたら良かれと思ってる事も、何となく引っ掛かる気持ちでした。

 

3.年明け、新たなプロジェクト

年末年始を挟んたことで、有給も2日程度の取得で済み、入社し3ヶ月が経過しました。

この頃から課長の自分への当たりが強くなりました。

 

年度末に国補助金事業を得るための大掛かりなプロジェクトに自分がアサインされてました。

その資料の取りまとめが年を明けてから本格化してきました。

と言うより、妻の出産もあり前倒しでの対応が割り当ての時間が年末までなかったのが実情でした。

 

大きく作業でやる事は二つ。

一つ目は、取締役会で承認を得る事

二つ目は、承認を得た後、補助金申請書を作成

 

一つ目は、承認を得るために第一関門として、所属する本部内のOKを取り付けることが必要性です。

今までの検討してきた事業アイデアをA3の1枚でまとめ、参考資料としてパワーポイントのプレゼン資料を追加する建て付けです。

 

前職からの経験で考えると楽勝!っと思ってたのですが、この会社では通用しませんでした。

 

まずダイジェスト版として重要なキーワードを抽出し、叩き台をチェックいただく。その想定で作成をし、課長にチェックを得る事にしました。

「まずその進めたを執行役員から同意を得たか?」

「そのイメージで進めて貰ってみんなで考えようと言われました」

「だったらまずは骨子(スケルトン)を作るべきでは?」

「今まで皆さんと検討してきたのである程度同意が得られると…」

そして、課長はノートを取り出し、章立てを書いていきました。

仕事のやり方が違うのか。何が理由か分かりませんでしたが、渋々課長のノートをコピーを取り資料の構成からやり直しをしたのです。

 

仕事のやり方が悪かったのか、ただ単にターゲットとしてイチャモン付けたいだけなのか、良く分かりませんでしたが、何か一つ仕事をやってもすんなりいくことは一度たりともなかったのです。。

 

次回以降、少しずつ蝕まれていく状況を伝えたいと思います。

 

 

 

 

適応障害サラリーマン 診断を受けるまで②

shomikupapaです。

適応障害障害の診断を受けて約1ヶ月半。

 

ここからはストレスの原因となった上司(課長)と転職活動について書きたいと思います。

 

今勤めている某インフラ企業は、ビズリーチを通じてヘッドハンターの方からの紹介でした。

大阪市内で安定した基盤であること、給与面もコロナ禍前より約200万ほど昇給が可能なこと。

そして一番は業種が違えど成長分野での新規事業開発をそのまま続けられる事が魅力でした。

転職者も9割程と言われており絶好の機会と感じて面接を受ける事となったのです。

 

コロナ禍もありリモートでの面接でしたが、執行役員2名と話させてもらい、2人の人柄の良さや、当初想定の条件も確認できたことでトントン拍子で内定まで至りました。それが21年の7月のことでした。

 

その後、10月に入社が決まったことや退職の調整もできてました。ここまでは順調でした。

 

その中で一つだけ不安がありました。

実際にお会いしてないのに内定に至ったので、実際に面会できてない事でした。コロナ禍の転職活動あるあるだとは思い、ヘッドハンターを通じてセッティングを依頼しました。

ヘッドハンターからは、これから所属する直属の上司(課長)にも顔合わせしたら仕事のイメージが付くとの事で調整いただき、9月の中旬に面会する事ができました。

 

会議室で緊張の中、入ってきたのがリモート面談でお会いした2人のうちの1人の執行役員と直属の課長でした。

 

事前に用意してた質問をし、仕事のイメージを想像してた最中、ある質問をしました。

「正直○○の事業って、収益は度外視して会社のブランドや取り組みを広く知らしめると思います」と言ったところ、課長から

「会社で事業をしてて収支を度外視なんてありえない!PLや新規事業は、、、」など5分以上考えを返されました。

 

この人とは上手くやってく自信がない。

 

とっさに感じました。

 

そう感じたのは新入社員の頃、親会社への営業活動中、その課長クラスの人から恫喝されたことで年上の男性、特に自己主張の強い人や上から目線の人に苦手意識を持っており、それは部署移動した時に、そのような性格を感じる人には遠慮してしまう精神状態になる事が良くありました。

 

この人とは上手くやってく自信がない。

思い込みのスイッチが入ってしましました。

 

帰宅後、課長の話を妻に伝えました。

「まだ仕事してないんだから、入ってからでないと分からないやん」

その言葉通りでしたが、入社まで頭から離れませんでした。

 

退職願いも受理され、入社への誓約書も書いた中、立ち止まることも考えましたが、条件には勝てなかったことと、一番は家族の生活が安定する事が大きかったので、そのまま入社日を迎える事になったのです。

 

次からは入社後の出来事を書きたいと思います。

適応障害サラリーマン 診断を受けるまで①

shomikupapaです。

適応障害障害の診断を受けて約1ヶ月半。

 

コロナ禍以降を綴りたいと思います。

旅行代理店では新規事業を立案部署に立ち上げメンバーとして入りました。そのタイミングが19年10月で、1年が過ぎた頃、コロナがやってきます。

東日本大震災の頃を思い出し、「また来たか」と感じました。

 

元々仕事柄色んな場所へ行けることを楽しみに台湾やシンガポールなど海外の新規事業の下見での出張などやりがいを感じた日々でした。

20年2月の台湾出張では、台北空港で入国の際厳しい体調チェックがあったりと、薄々これからの海外旅行に行くお客様は減るだろうなと思ってました。

 

そしてGWの頃になり妻の3人目の妊娠が分かりました。

 

想定はしてなかったので、生理が遅れぎみとのことで、買い物のついでに検査薬買ってきてチェックすると結果陽性が分かったのです。

 

この頃、緊急事態宣言があり旅行予約のキャンセルが激減。ほぼ90%以上の売上が吹き飛びました。そして妻の妊娠。。。将来設計に暗雲が立ちこめました。

 

妻も自分も性格的に計画的ではないので、起こった事実は受け止めて、じゃあこれからどうしていこうと考えていて楽天的ではあったんですが、

「子供3人が大学まで通ったら、絶対今の会社じゃ無理だな」

「転職したら?」という話を日々した結果15年働き続けた旅行代理店からの転職を真剣に検討することになりました。

 

20夏、冬のボーナスは不給。給料は5%カットは決まってたので正直言って詰んだ状況でした。

 

妻は当時真ん中の2歳の娘がいたので専業主婦でしたが、ネットで出来る仕事で某教育企業の定期テストの採点をして夜中もカチカチとPCを叩いてました。

自分も副業が解禁されており運動も兼ねて、ポスティングのバイトをしてました。

「まあ、貯金もあるし何とかなるだろう」

と出来る範囲で本業以外の稼ぎもしてた頃でした。

 

毎月の支出も見直し、携帯はUQモバイル、保険も見直したりと出来る範囲の生活費の見直しも行いました。

それでも、毎月の家計の収支はマイナス。多い時は▲10万など、ボーナス頼りの生活の我が家にとっては少し続く蝕まれていく感覚でした。

 

 

転職は何回か今まで活動してきたものの、条件と一致しない状況でしたが今回は職務経歴書から面接対策と自分なりに準備をしました。

この頃、新規事業で担当したプロジェクトが国の補助事業に採択され、経歴に書くネタとしてはプラスになるなど、出来れば同じような仕事で業界は問わず、待遇面は年収ベースで+200ぐらいを希望してました。

 

これから別のブログで話しようと思うので転職の経緯は割愛しますが、ご縁があり、某インフラ企業の管理職として内定を頂くことができました。

待遇面はほぼ希望通り、仕事内容も同じような新規事業開発。そして初めて役職を頂けるなど想定以上の条件でした。

 

そして20年9月に退職、10年に今の会社へ入社しました。

初めての転職で緊張はありましたが、コロナ禍で新しいことにチャレンジ出来る環境に期待を持った入社でした。

 

次からは適応障害の原因となった上司と、転職活動の話をしたいと思います。

 

はじめまして!shomikupapa自己紹介です!

shomikupapaです。

適応障害障害の診断を受けて約1ヶ月半。

ここまでの経過とこれからの方向性を自分なりな整理したくて文章にしました。

どれだけ続くは分かりませんが、記録として、自身の考えや方向性を整理することを目的に書いていきたいと思います。

 

▼プロフィール(22年5月現在)

・38歳、三児の父、大阪在住

・21年9月まで新卒から勤めていた旅行代理店を退職

・同10月より大阪市内のインフラ企業に転職

・新築工事中。今月末に引き渡し予定

・趣味 旅行とジムとサウナ

・今の会社は初めての転職で6ヶ月経過。新しい環境と上司との関係性などで体調不良となり心療内科適応障害と診断。今に至る

 

いわゆる普通のサラリーマンです。大学まで野球しておりジムにも通ったりと体力には自信があります。

社会人となり結婚してからも色々ありましたが、他の人なりの生活をしてました。

 

自己紹介を兼ねて、今までの経緯を話したいと思います。

プロフィールに書いた通り、前職の旅行代理店はコロナの割を食う業界で業績に即直結します。

平和産業の宿命です。東日本大震災の時もたくさんの旅行の予約がキャンセルとなり売り上げも激減。当時東京で勤めていた自分も3日会社に行けずどうなっていくか不安でした。

その不安も現実となり、給料カット、ボーナスもほぼ不給の中、会社は体制を守ることしかできず沢山の同僚が去って行きました。

自分は当時独身、実家暮らしでしたので危機感はそこまでなかったのでそのまま仕事は続けていくことになりました。

 

この後、大阪転勤や今の奥さんとの結婚があり旅行代理店への仕事を続けコロナ禍を迎えることとなったのです…

 

次回からは転職の経緯を通じて環境の変化をお伝えしたいと思います。